歴史の構造とは
こんにちは。
前回、歴史って何の役に立つの?で西洋と東洋で歴史の考え方の違いを説明しました。
その時の記事では歴史って意味ないじゃんwみたいな書き方で終わりにしたんですが、ちょっともったいなかったなと感じたので今回は歴史の構造について説明します。
西洋では歴史とは真理へ至る道
東洋では廻り回り巡るもの
………
じゃあ、どっちが正解なの?
………
どっちも正解です。
モノ、対象物というものはそれ自体を見るにはある視点でしか見れないので(つまり見る角度が違う)(射影といいますが難しいので射影についての考えはまた今度)、西洋と東洋の歴史についての考え方は違っていて当たり前なのです。そして、どちらも同じことを言っているのです。
どちらも一緒ってどういうこと?
例えば自分の顔です。自分の顔、鏡で見たときと写真で見たとき、下から見たとき、上から見たとき、友達に似顔絵を描いてもらったとき、どの顔も自分自身で間違いないのですが全く異なった様子を見せます。
何となくイメージがつかめましたでしょうか?
西洋の歴史と東洋の歴史を折衷するとこのようになると思います。
歴史の構造とは螺旋階段のようになっている。どういうことか?
螺旋階段は上から見たら円の繰り返しなので円がずっと続いています。
ただ、螺旋階段にも入り口と出口がありますから、入り口が歴史の始まり、出口が真理と考えると下から上へまっすぐではないですが一段一段積み重なっていっています。
実際の歴史でいうと、
移動手段では歩き、走り、かご、馬車、機関車、車、電車などなど同じ移動手段というカテゴリーですが進化し続けています。ただ、移動するということが無くなってはいません。つまり、進化(変化)は続くが無くなりはしないということです。
戦争もカテゴリーでいうと競争です。
食べ物の奪い合い、土地の奪い合い、お金の奪い合い、人の奪い合いという風に奪い合うものは変化しますが無くなりはしないのだと思います。
つまるところ、人の欲求は変わらないけれど人の欲求を満たす方法は変わっていく、それを記したのが歴史というもの、ということです。
これらはあくまで人の歴史です。これからの時代アメリカでは人にチップを埋める開発をしているスタートアップ企業もあるので人が人で無くなれば(人という定義が変われば)歴史という定義も変わるかもしれません。
1000年後には歴史の授業がロボットの歴史を学ぶこと、となっていても不思議ではないですし…
最後まで読んでくれてありがとうございました。