なぜ時間軸は過去から未来へ一方向なのか
こんにちは。
今回は私が毎週購読している週刊ダイヤモンドで面白い記事があったのでそれについて紹介します。
基本的にこの週刊誌はビジネスのことが中心ですが、毎週見開き1ページ最先端科学の情報を掲載されています。そしてこの時のお話が結構面白かったし、アダムスミスの見えざる手とも考え方が近いなと思ったのでご紹介します。
記事のタイトルは「なぜ時間軸は過去から未来へ一方向なのか」というものです。
物理学を高校生で習った方ならわかると思いますが、運動法則は(慣性の)
v=v₀+at
s=v₀t+(1/2)at²
v²-v₀²=2as
で表させます。
これって時間がマイナスでも式上は成り立ちますよね?
でも、t>0って教科書に書いてあると思うんです。
なぜ時間はマイナス方向に進まないのか?
それは場合の数を考えれば分かります。
物事は場合の数が大きい方へ動いていきます。
コップを落とす➝割れる
何故その逆が起こらないのか?
それは割れた状態の存在確率の方が割れた破片が集まってコップになるという場合の数よりも高いからです。
私たちはある種異常な空間に住んでいてアルミニウムの塊を見たりH₂Oの塊を見たりしていますが、自然界では純度というのはどんどん低くなっていくのが普通です。部屋が汚れるとか、物が汚くなっていくというのも純度が低くなっているということです。
何故純度が低くなる方へ進んでいくのか?それは純度が低くなる方が場合のが図が大きくなるからです。(全てに当てはまるわけではないです)
だから一回割れて純度が低くなったコップがまた純度の高い状態へ戻るということが自然界では起こりにくいのです。
(今回は場合の数という言葉や純度という言葉で説明しましたがベクトルや確率を使って説明することもできると思います。)
自分を例にとると
今いる自分よりも未来の自分の方が場合の数が大きい、すなわち可能性が大きいから過去には戻れないということです。人は生きているうちにいろんな人から影響を受けるというのも自然法則なのだと思います。
さて、アダムスミスの見えざる手について
アダムスミスの見えざる手も同じことを言っている気がします。
まず、見えざる手とは何なのかを説明すると経済の動きを表したもので簡単に言うとやばいことが起きても自然となんとかなるよ
みたいなことです(雑)
現在アベノミクスで経済対策をしていますが経済をコントロールしようというよりは一時的にでも悪すぎる方に行かせないようにしようという考えで昨今は行っているはずです。
それは経験則としても経済対策はあまり効果がないと分かったこととアダムスミスの見えざる手のように数学上でも確率が低いと分かったからです。
現在は数学的に難しいと分かったことを感覚的に唱えたアダムスミスはすごいなっと記事を見て感じたという話でした。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
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性善説と性悪説は両方正しい?
こんにちは。
性善説と性悪説はそれぞれ孔子の弟子である孟子と荀子という人が唱えたものです。
簡単に説明すると
性善説とは人は生まれたときから人を思う心(善)がある
(孟子の思想の根源は仁であり、仁とは人を慈しむ心を大切にしなさいということです。
これを全員に当てはまるように説明しようとするとどうしても生まれたときから全ての人は仁を持っていると説明するしかないのです。
現在悪いことをしている人間を仁の道に連れていくには前提条件が性善説でなければいけなかったのだと思います。
例えば、ドラマで犯人を説得するときに君は元は良い人間だとか、君はそんなことをする人間じゃないのように説得をする場面がありますが、これは完全に性善説を基にした言い方です。)
性悪説とは人は生まれたときから人は競争心(悪)がある
(荀子の思想の根源は礼であり、礼とは秩序(ルール)を大切にしなさいということです。
なぜルールを大切にしなければならないのかというとルールを設けないと人は好き勝手に物を盗んだり人を殺したりするから、という理由です。そして、ルールを守らせるために教育が必要だとも説いていました。
先の例で説明すると犯人を説得するのは理想論だから、さっさと捕まえて更生施設にいれて教育を受けさせましょう。という感じです。荀子はかなり現実主義者だったようです。)
実際にこの文章を見て気付いた方もいると思いますが、この二つの理論は全く正反対のことを言っているわけではありません。
しかも、この二つの説はかれこれ2000年前から残り続けているものなので、どちらが正しいとかどちらが間違っていると考えること自体無理がある気がします。
両方正しいとすると人は生まれたときから善と悪を持っているという何とも平凡な解になります。少しつまらないので、例を考えてみます。
原始時代、人は群れを作り、男は狩り、女は子育てや果物等を採取をして生きていました。
子供は生まれたときから家族と暮らし仲間を大切にしていきます。仲間を大切にしないものは群れから追い出されて生き残れなくなり遺伝子が途切れます。そして仁を持つ人が生き残ります。
男は大きくなると狩りをします。群れでは狩りで一番腕の立つものがリーダーになり、良い妻をもらえます。
そこで男の中で競争が起こります。競争に負けた人は狩りではなくリーダーと直接勝負をすることで自分がリーダーになろうとします。負けると死ぬか群れを追い出されます。そして競争心があり、強いものが生き残ります。
(稀に競争心がなくても遺伝子を残せるやり手がいますが基本競争心がなく弱いものは妻をもらえないこともあるため遺伝子を残せません。)
こんな感じで今ある遺伝子には性善説と性悪説が刻み込まれているのだと思います。
性善説と性悪説について書きすぎて自論が書けなかったのでまた次の記事で書きます。
最後まで読んでくれてありがとうございました。
参照書籍
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歴史の構造とは
こんにちは。
前回、歴史って何の役に立つの?で西洋と東洋で歴史の考え方の違いを説明しました。
その時の記事では歴史って意味ないじゃんwみたいな書き方で終わりにしたんですが、ちょっともったいなかったなと感じたので今回は歴史の構造について説明します。
西洋では歴史とは真理へ至る道
東洋では廻り回り巡るもの
………
じゃあ、どっちが正解なの?
………
どっちも正解です。
モノ、対象物というものはそれ自体を見るにはある視点でしか見れないので(つまり見る角度が違う)(射影といいますが難しいので射影についての考えはまた今度)、西洋と東洋の歴史についての考え方は違っていて当たり前なのです。そして、どちらも同じことを言っているのです。
どちらも一緒ってどういうこと?
例えば自分の顔です。自分の顔、鏡で見たときと写真で見たとき、下から見たとき、上から見たとき、友達に似顔絵を描いてもらったとき、どの顔も自分自身で間違いないのですが全く異なった様子を見せます。
何となくイメージがつかめましたでしょうか?
西洋の歴史と東洋の歴史を折衷するとこのようになると思います。
歴史の構造とは螺旋階段のようになっている。どういうことか?
螺旋階段は上から見たら円の繰り返しなので円がずっと続いています。
ただ、螺旋階段にも入り口と出口がありますから、入り口が歴史の始まり、出口が真理と考えると下から上へまっすぐではないですが一段一段積み重なっていっています。
実際の歴史でいうと、
移動手段では歩き、走り、かご、馬車、機関車、車、電車などなど同じ移動手段というカテゴリーですが進化し続けています。ただ、移動するということが無くなってはいません。つまり、進化(変化)は続くが無くなりはしないということです。
戦争もカテゴリーでいうと競争です。
食べ物の奪い合い、土地の奪い合い、お金の奪い合い、人の奪い合いという風に奪い合うものは変化しますが無くなりはしないのだと思います。
つまるところ、人の欲求は変わらないけれど人の欲求を満たす方法は変わっていく、それを記したのが歴史というもの、ということです。
これらはあくまで人の歴史です。これからの時代アメリカでは人にチップを埋める開発をしているスタートアップ企業もあるので人が人で無くなれば(人という定義が変われば)歴史という定義も変わるかもしれません。
1000年後には歴史の授業がロボットの歴史を学ぶこと、となっていても不思議ではないですし…
最後まで読んでくれてありがとうございました。
歴史って何の役に立つの?
私は小学生の時から歴史が嫌いでした。
昔のこと勉強して何になるの?米騒動?知って何になるの?(マイナーかもしれませんが何故か記憶に残っています)
こんなことを言うと歴史を好きな人からこう言われました。
「歴史はこれが起こってこれが起きたっていう関係が大事。それを知っていたら同じ過ちを繰り返さなくて済むでしょ」
とのこと。納得です。意義もありません。グーの音も出ないってやつです。
後で築いたのですが、これって輪廻ってやつですね。歴史は繰り返される。そう!歴史は繰り返される!
(大事なことなので二度言いました。)
東洋の思想は歴史とは巡り巡るもの。だから、記録に残して後世の人が同じ過ちをしないようにしようと考えたのです。
(漢文、古文は時代が細かく書かれてなく昔々とか○○時代みたいな書き方が多いのも東洋の思想から来ているのではないでしょうか。)
なるほど。少し納得はしましたが、感覚的にはまだ…
なにせ、歴史が嫌いだった理由が○○年 ○○の乱、○○年 ○○事件、みたいなのを暗記させられたことなのですから。
こんな愚痴を言うと歴史好きな人も黙ります。人によってはうな重にかける山椒ぐらいピリッとする人もいます。気を付けてください。(鰻美味しいですよね。)
そんな私でもついに感覚的に納得ができました!それは大学生のときです。
大学の数学の教科書を目で追って読んでいた時にこう思ったのです。
なんでこんなに式展開が早いんですか?
書いた人頭良すぎなんですか?
出版社ページ数制限しすぎなんじゃないんですか???
あ”ぁ!!??
まてよ…
これと歴史似てるんじゃね?
どういうことかというと、西洋の歴史とは真理(絶対に変わらない何か)まで至る道のことを示しているものなので数学の求めたいもの=真理とすると、式展開=歴史になります。
求めたいものまでの式展開が飛び飛びでは傍から見たら意味不明ですよね。
歴史を記した人はそのことを重々知っていて細かく細かく式展開を書き残してくれたのです。
まとめると歴史とは数学でいう式展開と同じだった!!
つまり、何の役に立つかではなく、人々が真理へたどり着いたときにその道を忘れないようにするものだったのです。
ただし、現在の哲学では真理など無いとされています。
ん??ってことは歴史って意味なくね?
最後まで読んでくれてありがとうございました。
参照書籍:史上最強の哲学入門 飲茶